福井駅に残っていた明治時代の転車台の痕跡 2016.6

北陸新幹線福井駅の建設に伴う大規模な発掘調査で明治時代に作られた転車台が地中に残っていたことが判明しました。発掘調査の目的は江戸時代の遺構調査のため、転車台は調査後に撤去されてしまいましたが、調査資料を元に転車台について紹介します。

福井駅の転車台跡

2016年6月中旬、私は新幹線建設の様子の定期記録のため福井駅を取材していました。

プリズムの間にある自由通路の南側を見ると円形に積まれたレンガ積みの遺構が、すぐに転車台の痕跡だとわかりました。

帰宅し、「鉄道博覧会」2011年7月福井県立歴史博物館発行に収録されている図録110「福井停車場構内機関庫平面図」明治後期を見ると、転車台が書かれていることから明治時代に作られた転車台だと確定しました。

 

机上調査

2024年3月、2016年の発掘調査結果をまとめた福井県埋蔵文化財調査報告188:福井城跡 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター発行(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/18/18000/item/139201?sort=publish_date%3Ar)がネット上で公開されました。その中に転車台の記載があったので抜粋します。

・この転車台は明治29年(1896年)に敦賀ー福井駅間の官鉄の北陸線開業に伴い築造されたものである。

・蒸気機関車が廃止されると転車台は不要とされる例が多くみられたが、当駅は撤去されなかったのがわかる。

・調査で検出したのは転車台の西側の一部分である。回転台は抗内部はコンクリートで土台を作り、外縁部には煉瓦を数段積む。

回転台抗も煉瓦を認めるが、その部分には円形軌条を支える枕木の痕跡が見られる。

・使用部材の煉瓦は耐火煉瓦で、平仮名を刻印したもにや「三石耐火煉瓦株」の刻印を認めるが、これは「三石耐火煉瓦株式会社製」を表す。

上記報告書、第164図より引用

国土地理院サイト、最新航空写真、1960年代航空写真(https://www.gsi.go.jp/)より引用

 

報告書には明治後期の福井駅構内図面があり、また、国土地理院サイト内にある1960年代航空写真と現代の航空写真を比較した結果、上図赤丸の場所に転車台があったことがわかりました。

1946年の航空写真(国土地理院より高画質版購入)を見ると該当場所には建物があることから、遅くとも昭和15年(1940年)の木田操作場(福井操作場)建設に伴う福井駅構内改良工事に際に用途廃止・埋戻しが行われたと推測しています。

 

福井駅構内は足羽川まであった?

余談ですが、転車台の調査のため、資料を集めていると福井駅構内は足羽川沿いまで続いていたのではないかと疑問が生じました。以下、疑問に至った経緯と推測です。

上で紹介した明治後期の福井駅構内図を見ると赤印をつけた線路は機関区から直接伸びているため、本線でないことがわかります。

福井駅~福井操作場間は1940年に複線化されるまでは単線でした。明治後期の時点では赤印の上の線路が本線で、下が構内線だと推測されます。

転車台の調査の中で下記記事に気になる記述を見つけました。


③城ノ橋踏切改善。当時すでに1日の平均遮断時間が8時間に達して「交通地獄」状況にあり、この改善が課題であった。

(中略)、遮断時間の相当部分を列車の入換え時間が占めていることから、福井市当局は福井駅の機関庫の郊外移転を従来から鉄道省に強く求めていた。

しかし、鉄道省の予算と北陸線の位置づけでは容易には実現できず、昭和15年12月の木田操作場の完成まで待たなければならなかった。

昭和八年・福井陸軍特別大演習とその時代(http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2016/36-0099.pdf)より引用


1933年に開催された福井陸軍特別大演習の記事ですが、この中で城ノ橋踏切は福井駅の列車入換えのため、開かずの踏切化しているとあります。

つまり、構内線は城ノ橋踏切のさらに南へ(図左)へ延びていたことが読み取れます。

ここで「鉄道博覧会 図116「福井(足羽川)動橋両停車場貯水槽上蓋新設之図」明治後期」を見てみますと、

機関車などに水を供給する貯水槽の図面ですが、「足羽川」の文字が気になります。

デジタルアーカイブ福井で公開されている福井市鳥瞰図「福井市鳥瞰図昭和8年(1933年)(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=012-1002503-0)より引用」を

見ると、足羽川沿いに給水塔らしき建築物が書かれています。福井駅構内には給水塔はありません。

構内線は機関車の給水のため、足羽川沿いの給水棟まで伸びていたと仮定できます。

 

国土地理院サイト、1948年6月福井震災直後の航空写真(https://www.gsi.go.jp/)より引用

福井震災直後の航空写真は撮影高度が低いため、地上構造物が見えやすいためよく閲覧します。

その写真を見ると赤丸の給水塔らしき建築物とその横にはポンプ場らしき建物が写っています。

福井震災時には福井駅~福井操作場が複線化されているため、青線は本線、緑線は構内線と材木置き場への貨物線だと思われます。

 

ふくいの歴史アーカイブス 「福井市広報課写真帳」(https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/index.html)には

震災後に大和ビルから撮影されたパノラマ写真があります。そこには足羽川沿の給水塔が写っていました。

航空写真と見比べると屋根が落ちているのがわかります。

 

ちなみに、震災時の福井駅の写真にも京福乗り場付近に給水塔らしき建築物がありますが、福井市鳥瞰図には書かれていないため、1933年~1948年の間に建設されたと思われます。

以上より、鉄道博覧会図116で書かれている給水塔は足羽川沿いに設置されたもので、福井駅構内は足羽川沿いまであったのではないかと推測しました。

 

 

 

 

以上、福井駅に残っていた明治時代の転車台の痕跡 2016.6 でした。