福井県バス転落事故(1954年1月福井市で発生) 

1954年(昭和29年)1月、福井市和田中町で満員の福井県バスが足羽川右岸道路から堤防下の水路に転落する事故が発生、死者11名、重軽傷者36人を出した交通事故を紹介します。

事故の内容

事故が起きたのは、1954年1月26日午前8時20分頃のこと。福井県乗合自動車株式会社(通称「県バス」、昭和38年に京福電鉄と合併し現在の京福バス)のバスが、満員の客を乗せて福井市内に向け走行中、足羽川右岸道路から堤防下に転落した。

当時、県バス池田線(上池田発福井駅行)は、自家用車が普及していない時代において池田村民の重要な交通手段だった。この日午前7時、バス(五十一年型いすゞディーゼル製)は、定刻通り今立郡上池田町稲荷停留所(現・池田町稲荷)を出発。翌27日に予定されていた県立高校の学力試験を控え、下池田中学校の生徒10人を含む乗客65人(定員42人)を乗せていた。

事故現場となった足羽川右岸道路は、現在の4車線の国道158号(バイパス)ではなく、当時「美濃街道」と呼ばれていた堤防道路だった。この日の朝は積雪約13cm(現場は9cm)、気温氷点下1℃で、砂利道が凍結していたにもかかわらず、バスはタイヤチェーンを装着していなかった。

午前8時20分頃、足羽郡酒生村和田中(現福井市和田中町)付近を時速約25kmで走行中、道路中央よりやや左側前方をバスと同じ方向に自転車が1台走行していた。運転手は自転車を追い越そうとクラッションを鳴らしたところ、自転車は道路左側に寄って、バスが通る程度の道幅を開けた。バスは時速約25kmで自転車を追い越しにかかると、自転車は雪にハンドルをとられ、バスの2,3m前でバランスを崩し、道路中央に倒れ掛かった。そのため、運転手はとっさにハンドルを右に切り、急ブレーキをかけた。しかし、路面はアイスバーンのようになっていたため、バスは道路右端に向けて約13mスリップし、高さ約6mの堤防から1回転半して転落、堤防下に流れる幅約2.5m、深さ約1mの栂野用水排水溝の中に横倒しとなった。車掌は即死、車内に入ってきた水により乗客10人が水死、運転手をはじめ乗客36人が重軽傷を負う結果となった。

事故現場を管轄する国警高志地区警察署では、全職員を講堂に集め、署長訓示の最中であったが、「足羽川堤防から乗合自動車が転落、死者がでた模様」との第一報が入ったため、宮前徳市刑事係長ら50人あまりが直ちにジープとトラックに分乗し、現場に向かった。現場にはすでに栂野区の防犯隊や通行人が救助にあたっており、福井市警察職員も加わり、総勢100人以上の救助隊員が活躍した。転落したバスは、衝撃で車体がゆがみ、窓ガラスは開かず、車内からは助けを求める乗客の悲鳴が飛び交っていた。救助隊員は雪に足をとられながら窓ガラスを割って、一人一人助け出し、ただちに福井市内の青木(現廃院)・県立・日赤・田中の各病院に搬送した。

事故から2か月後、犠牲者の冥福を祈るため、事故現場に慰霊碑が建立された。1954年3月24日午前10時、慰霊碑の除幕式が行われ、日田国警隊長や遺族、下池田中学校卒業生らが参列した。

参考文献:福井県警察史 第2巻 P777-778

事故現場地図

福井市和田中町です。

 

現在の様子

2024年12月現在の事故現場の様子です。

足羽川右岸道路(旧国道158号)、バスは右下に落ちました。

 

1954年3月に建立された「交通事故遭難者慰霊碑」

 

慰霊碑

 

バスが落ちた水路

 

慰霊碑には事故の概要と犠牲者の名が書かれています。

 

以上、福井県バス転落事故(1954年1月福井市で発生)  でした。