三・八連続放火事件(1970年福井市・坂井市を中心に発生)

1968年から1971年にかけ、福井市・坂井市を中心に69件の放火が発生した「三・八連続放火事件」を紹介します。

事件の発生状況

昭和45年(1970年)10月23日未明(午前3時10分から3時50分の間)、武生市広瀬町と高瀬町、福井市下森田本町と高木町の4ヶ所で火事が発生し、農作業小屋や住宅が全半焼した。その5日後の10月28日未明にも福井市八ツ島町と中角町で二件の火災が発生し、物置小屋や住宅が全半焼した。警察の調査の結果、1)出火時間がいずれも午前2時から5時の間、2)火の気のない場所からの不安火、3)三と八のつく日に多発しているなどの特徴が見られることから、同一犯人による放火事件と見て、10月28日、福井警察署に“連続放火事件捜査本部”を設立し、本格的な捜査に着手した。

11月3日には福井市勝見3丁目と足羽町下六条(現福井市下六条町)で作業小屋から出火し、隣接の住宅など3棟が全焼、更に11月4日には福井市勝見1丁目と木田町で物置小屋から出火し、いずれも全焼した。

福井県警捜査一課は、放火と見られる過去の未解決事件を調べた結果、昭和43年(1968年)10月から昭和45年(1970年)9月18日までの2年間に福井市、春水町、芦原町、松岡町、武生市で農作業小屋などが燃える不審火が散発的に25件発生していることが判明。その出火時間はいずれも午前2時から5時の間であり、農作業小屋が燃えている共通点から、同一犯人による犯行とみて大規模な捜査を行った。その後も放火と見られる火事が各所で相次いだことから事件は「三・八連続放火事件」としてマスコミにより連日大きく取り上げられ、世間の注目を集めた。

警察の懸命な捜査にもかかわらず、12月29日までに福井市内で9か所(発生順に大宮2丁目、花堂3丁目、開発町、足羽4丁目、南居町、町屋町、文京4丁目、藤島町、四ツ井本町)で農作業小屋や物置小屋からの不審火が発生した。また、丹生郡清水町清水山や宮崎村八田でも同様の不審火が確認された。これにより、昭和43年(1968年)10月2日から約2年間で、同一犯によるとみられる放火事件は合計46件に達した。

不審火が丹生警察署管内でも多発する事態を受け、昭和45年12月12日には丹生警察署内に「連続放火事件捜査本部」を設置した。さらに、福井警察署と丹生警察署の捜査本部を統括するため、福井県警察本部捜査1課に「福井県警察連続放火事件合同捜査本部」を設置した。

合同捜査本部では県内各警察署から捜査員の応援を要請し、通常時には250人、放火が予想される3と8のつく日には500~800人の警察官および一般職員を動員した(大規模な動員は11月23日から開始)。深夜には主要箇所での検問や張り込み、密行を実施し、各町内会でも住民が夜警団を組織して警戒態勢を強化した。この事件は福井県議会厚生文警委員会でも取り上げられ、2名の委員が質問を行い、県警本部長が陳謝する場面もあった。

昭和46年(1971年)の年明け後、1月2日午前2時に福井市若杉町で土蔵の外側から出火があり、3日と4日には福井市佐野町と森行町で物置小屋からの出火が発生した。しかし、これらの3件はいずれも付近住民や警戒員による早期発見が功を奏し、すぐに消し止められた。

捜査本部は未遂事件現場で犯人に結びつく手がかりを得るため、入念に現場鑑識を行った。その結果、証拠物の中から渦巻き蚊取り線香の燃え殻の一部を発見した。これにより、犯行は蚊取り線香などを使用した時限発火装置によるものであると推定された。

1月9日には春江町石仏、福井市栄町、福井市御幸2丁目の3か所で、いずれも建物の外側から出火した。1月13日には福井市みのり2丁目、1月20日には春江町為国幸(未遂)および福井市新保町、1月27日には福井市本堂町で放火とみられる出火が発生した。

その後、福井県内で連日雪が降り始めたこともあり、約20日間にわたり事件は発生しなかった。しかし、雪が降らなくなると再び放火事件が起きた。2月19日には永平寺町東古市で物置小屋が全焼し、2月23日には福井市松本2丁目、2月27日には福井市足羽1丁目で社員宿舎や住宅がそれぞれ全焼半焼する被害が発生した。

3月4日には春江町駅前、3月11日には福井市八重東町と春江町境上、3月17日には春江町為国中、3月18日には丸岡町八ツ口で工場や物置小屋が被害を受けた。一連の放火事件は合計65件に達し、被害額は8160万円に上った。

その後、放火事件の発生は途絶えた。その主な理由は、捜査本部が放火容疑者を特定し、徹底した張り込みや尾行捜査を行ったことで、犯人の行動が極度に制限されたためである。

事件の捜査

1.張込み、密行を中心とした先制捜査体制で臨み、現場に向かう犯人を事件発生前に検挙する。

2.事件が発生したときは、初動捜査を徹底して犯人を逮捕する。

3.基礎捜査に全力を挙げ、容疑者を割出す。

 

の3点を柱とし、発生予想地域における張込み、密行、検問を行うとともに、火災が発生した場合は、他の地区に配備している警察官をただちに火災現場から半径500m~1000mの範囲に配置転換して、現場から逃げる犯人を包囲し、検問を強化して逮捕することとした。また、基礎捜査として、出火原因の捜査をはじめ、現場付近の聞き込み、不審人物の割り出しを強化した。

昭和45年12月23日、福井市藤島町で発生した未遂事件の残留物を分析した結果、着火材料として使われたとみられる切り藁が見つかった。さらに、昭和46年1月4日に福井市森行町で発生した出火の際、採取した切り藁の中から渦巻き蚊取り線香の燃え尽きた灰が発見された。このことにより、時限放火説が有力となり、警戒時間を午後11時から午後7時に繰り上げ、次の要領で実施することが決定された。

1.張り込みは軒下、木影など裏通りの暗い所を選び、必要に応じて四ツ辻など見通しのよい場所に立つ。

2.密行、張込みは必ず単身で行い、物置小屋、農作業小屋、倉庫など放火が予想される場所を重点に行う。

3.護身用具、懐中電灯などを人目につかぬように携帯し、放火の材料となるものがセットされていないか見回る。

4.駐車および停車している自動車や二輪車はナンバーを控え、運転者情報を控え、放火に関係するものがないか検査する。

5.密行順序や職務質問を行った時間、場所、検索建物などを記録し、勤務終了後に捜査本部へ報告する。

 

捜査本部では一連の捜査により不審者890人、不審車両12万4100台をすべてカードにしてリスト化、身辺捜査などによって、容疑者4人と容疑車両4台までしぼりこんだ。

容疑者の逮捕

最終的に絞り込まれた容疑者は、25歳から42歳までの福井市や春江町に住む男性4人で、職業は会社員、自営業、無職など様々であったが、日常の行動に不審点が多かった。そこで、容疑者それぞれに特捜班を編成し、各班で身辺捜査や状況証拠の収集にあたった結果、30歳の男性K(仮名)一人に絞り込まれた。Kは春江駅東側のエリアで両親と兄夫妻と同居していたが、妻子はおらず、定職にも就いていなかった。無口で内向的な性格であった。しかし、時折、家にあるバイクや自動車で福井市内をさまよい、1月13日にみのり2丁目で発生した工場火災の際には、足羽山から双眼鏡で火事の様子を観察しているところを捜査員に職務質問されるなど、行動に不審な点が多々あった。

昭和46年(1971年)2月25日、入念な基礎捜査と徹底した張り込み、尾行を行うため、特捜1班の捜査員を2人増員し、3月12日以降、特捜1班はK専属として本格的な尾行を開始した。Kは夜になるとバイクまたは徒歩で出かけることが多かったが、警察に尾行されないよう細心の注意を払い、家の出入りから目的地までの行動では、突然物影や路地に姿を消すなど、極めて機敏な動きを見せた。そのため、尾行の途中で見失ってしまい、その後の行動を把握できないことが何度もあった。

3月18日午後9時8分、Kは人目を避けるように自宅を徒歩で出発し、すぐに道路を横断して路地の暗闇に姿を消した。4分ほどして再度自宅前に現れ、再び路地の中に姿を消し、4分後にどこからともなく姿を現して帰宅した。それから1時間30分後、Kの自宅から南へ120mにある物置小屋から出火した。3月に入ってからは、このようにKの自宅から半径150m以内で3件の火災が発生し、いずれもKが時限装置を設置した疑いが持たれた。

3月29日以降、捜査員を30名に増員し、交代制勤務によって24時間体制でKの動向を完全に監視した。その結果、Kが自室にラジオを設置し、警察無線の通話を盗聴していることが判明した。これを受けて、警察は無線の周波数を変更し、捜査員間の連絡には暗号を使用することにした。

警察はKを放火現場で現行犯逮捕する方針を立てていたが、捜査網が厳重であったためか、3月19日以降、Kは放火に関連する行動を一切見せなくなった。しかし、これまでの捜査の結果、捜査本部はKの放火容疑に関する事実を特定できるとの確信を得た。そこで、4月7日、福井簡易裁判所に捜索差押許可状を申請し、公布された。翌4月8日午前8時、福井警察署の刑事と捜査員2名がKの自宅を訪れ、任意同行を求めたところ、Kは素直に応じ、捜査本部の車に乗り込んだ。

福井警察署での取り調べにおいて、Kは容疑を全面的に否認した。しかし、昭和45年12月23日に福井市藤島町で発生した未遂事件の現場に残された指紋と一致したことが判明したため、取調官が「犯した罪は決して軽いものではないが、過ぎ去ったことをくよくよしても世の中は生きていけない。また、多くの被害者も今は君を恨んでいないだろう。むしろ、君が更生し、真人間になってくれることを願っている」と、情理を繰り返し、反省を促したところ、午後になると「これまでの放火はすべておれがやった・・・」と涙ながらに自供した。

さらに取調官が「今晩から夜警を解いてもよいか」と質問すると「犯人の私がここにいるのですから、夜警はもうしなくても結構です。長い間世間をお騒がせ申し訳ありません」と頭を下げた。

 

捜査本部は、Kの自供に基づき、午後3時30分に非現住建造物放火未遂罪で通常逮捕を行った。Kの自供内容は以下の通りである。犯行の動機は、福井市山室町の親戚のおじに「30歳にもなって仕事をせず遊んでばかりいる」と厳しく叱責されたことに腹を立てたことに端を発する。これにより、昭和43年(1968年)10月2日、腹いせにおじの農作業小屋へ放火し、全焼させた。その後、放火の事実が発覚するのを恐れ、カモフラージュ目的で、自分と関係のない他人の農作業小屋などに次々と放火を繰り返した。

放火の手口については、数年前に新聞で見た「渦巻き蚊取り線香に火をつけ、その端末にマッチを取り付けて時限発火装置とする」という記事を思い出し、実際に自宅裏庭で切り藁と蚊取り線香を用いた実験を行ったところ、うまく燃え上がったため実行に移したという。「3・8放火」については、当初その日を特段意識していたわけではないが、マスコミが「3と8のつく日に放火されている」と報じたことを受け、それに挑む気持ちで犯行に及んだとのことである。また、装置が発火しなかった未遂の放火が4件あり、一連の放火事件は合計69件に上った。

犯行後、警察無線を傍受した理由について、Kは「警察の捜査状況を知りたかったため」と語っている。昭和45年(1970年)5月にAM/FMエアプリスバンドのラジオを購入し、自室に設置。犯行の日は時限発火装置を現場に設置後、速やかに帰宅し目覚まし時計をセットして就寝、午前3時ごろの炎上予定時刻に起床して火災状況を伝える警察無線を傍受していた。また、時には交信を録音し、緊急配備や配置転換の内容を把握して、自らの犯行が成功したことに自己満足していたという。

昭和47年3月21日までに計9回にわたって公判が開かれ、検察側は無期懲役を求刑した。しかし、同年5月16日、福井地方裁判所での判決では、Kが深く反省し、貯金130万円を被害者への見舞金として送っていることなどの情状が考慮され、懲役15年が言い渡された。その後、検察側の控訴により二審の名古屋高等裁判所金沢支部では懲役20年の判決が下され、Kは服役することとなった。

参考文献:福井県警察史 第2巻 P1302-1310

 

以上、三・八連続放火事件(1970年福井市・坂井市を中心に発生) でした。