敦賀港駅から敦賀セメント敦賀工場へはかつて鉄道専用線が延びており、廃止後も工場へのトンネルが残されています。ここでは1968年当時の敦賀セメント敦賀工場内の1968年当時の専用線配線図と歴史を紹介します。
敦賀セメント敦賀工場とは
敦賀セメントは1935年にこの地で創業しました。敦賀セメントは太平洋セメントグループの一員で年間約70万tのセメントを敦賀工場で生産しています。セメントの材料となる石灰を隣接する敦賀鉱山及び新潟県・山口県・大分県などから石灰石専用船「敦和丸」による海上輸送で調達し、トラックで出荷しています。1990年中頃までは専用線を使用し、貨物列車で出荷していました。
配線図
1964年の航空写真に1968年発行の敦賀工場構内マップ記載の線路配置を加えました。
側線役割
専用線の各線の役割です。
1番線 | 授受線 |
2番線 | 包装品貨車積みホ-ム |
3番線 | 包装品貨車積みホ-ム |
4番線 | 到着車(石膏・紙袋など) |
5番線 | 発送車の集結用 |
機回し線 | 副産品の発送、稀にレンガや機械類・火薬類の取り卸し |
7番線(1962年増設) | 長さ420m、バラ積設備 |
8番線(1962年増設) | 長さ300m、バラ積設備 |
福浦隧道 | 長さ250m、幅4.5m、高さ3.5m |
敦賀ムゼウムからみた敦賀港駅、右奥に福浦隧道の入口が見えます。隧道入口にはフェンスが設置され、内部に入れなくなっています。
敦賀港駅と敦賀港線は2009年に貨物列車の運行を休止し、2019年に正式に廃線となりました。敦賀港駅はオフレールステーションとなり、南福井駅との間にコンテナトラックによるピストン輸送が行われています。貨物の集結地としては現役施設です。
敦賀工場側の福浦隧道出口は盛土で埋められています。
敦賀工場の事務所(旧試験研究上)前です。駐車場の場所に専用線がありました。現在、工場建物の一部に貨車輸送時に名残が残っています。
専用線の歴史
敦賀セメント敦賀工場専用線の歴史を紹介します。
工場は1937年に操業を開始しました。当初は製品の搬出・現状の搬入は海上輸送に依存していましたが、冬を中心に悪天候時には船の運航ができず、敦賀駅港駅に待機していた貨車まで運ぶことができず空荷で返送することもありました。そこで敦賀港駅から工場までをつなぐ隧道の掘削と専用線の敷設許可を国に求めていましたが、金ヶ崎神社の直下ということでなかなか許可が下りず、1944年11年にやっと建設が始まります。隧道工事は名鉄工業、専用線敷設は中部施設工業が担当、戦時中の資材不足で建設は遅々と進まず、終戦時の混乱で一時中断しました。戦後、施工会社を長建設に変え、1947年4月、2年半の歳月を経て福浦隧道が完成しました。その後、敦賀港駅構内及び工場内に総延長約800mのレールが敷設され、1948年12月1日から貨物列車の運行が始まりました。この日より創業当初から輸送の担い手だった船は消え、天候に左右されない貨物列車による効率的な大量輸送が可能となりました。
時代は進み高度経済成長、セメント需要の拡大で工場は次々増築を繰り替えし、生産数も右肩上がりに増えていました。1958年にはセメントのバラ積み出荷ができる100トンサイロが工場内に設置され、トラックで出荷が行われました。鉄道輸送によるセメントのバラ積み輸送は1958年11月に大阪S・S完成に伴い、電源開発から30トン積ホッパー車を借り、野田駅向け輸送を開始したのが最初です。このころになると工場には各種車両あわせ1日100両の出入りがあり、側線の許容能力が限界に達していました。販売体制も着々と整備され、各地のS・Sを軸とする販売計画が積極的に推進することになり、工場の出荷設備も根本的に検討することになりました。1962年、既存の機回し線から分岐し海沿いに7・8番線が敷設されました。ホッパー車40両を留置しても余裕がある延長で、専用のバラ積設備が設けられました。1962年5月からは構内入れ替え用機関車として使用していた蒸気機関車を廃止し、新たにディーゼル機関車(25トン)を導入しました。一連の工事により、バラ積能力は増強され、これまでの1日最高5両から30両(900トン)も可能となりました。工場で生産されたセメントは国鉄線を経由し、松任・名古屋・大阪など各地のS・Sに出荷されました。
出典:敦賀セメント二十年史(1968年発行)
以上、敦賀セメント敦賀工場専用線の配線図と歴史でした。