北陸本線旅客列車火災事故(1936年1月福井市で発生)

1936年1月13日、福井―森田間の福井市志比口3丁目志比口踏切(清川踏切)付近で発生した北陸本線旅客列車火災事故を紹介します。

事故の概要

昭和11年(1936年)1月13日(月曜日)15時14分、北陸本線の福井駅をいつも通り発車した下り606レ旅客列車は、6分後、円山東村志比口(現・福井市志比口3丁目えちぜん鉄道福井口駅付近、福井―森田間)の志比口踏切に差しかかった際、4両目の三等車後部で突然大音響とともに出火した。火は車内に広がり、乗客は悲鳴を上げて逃げ惑いました。この事故により、死者4人、重傷者4人を出す大惨事となった。

 

事故の発生

火災が発生した606旅客列車(米原発北陸経由上野行、機関車8620(48654)+客車8両、換算25両)には、福井駅から福井高等女学校(現在の藤島高校、当時校舎は現・高志高校の場所に所在)生徒や一般乗客など多数が乗車していた。その中に、金津町(現・あわら市)の便利屋であるA(当時33歳)の姿もあった。Aは福井市呉服町の商店で「赤貝印」の揮発油約19リットル(一斗缶)を購入し、それを金津町十日(現・あわら市春宮2丁目)の商店に運ぶため、列車の4両目にある三等車の後部に乗り込んだ。ガソリン容器は風呂敷に包み、車内の洗面所に置いたが、そこはスチームのすぐ横だった。

スチームの熱によって容器が膨張し、栓が完全に閉じていなかったため、気化したガソリンがわずかに漏れ始めていた。しかし、それに気づかないAは、その近くでタバコを吸い始めた。タバコの火が気化したガソリンに引火し、轟音とともに車内は瞬く間に炎に包まれた。百数十人の乗客は悲鳴をあげながら逃げまどい、列車内は大混乱となった。

運転手は爆発音に気づいて列車を急停車させたが、その瞬間には火はすでに4両目から5両目へと広がっていた。窓を破って脱出しようとする乗客たちは次々と外へ飛び出していった。

列車火災の通報を受けた福井消防署は、直ちに消防車2台を現場に派遣。福井駅からも消防隊が急行し、懸命に消火活動を行った。しかし、火の回りが非常に速く、4両目と5両目の三等車2両(ボギー車ナハ23505、ナハ24663)は、ほぼ原型をとどめないほど焼失した。

また、事故発生の知らせを受け、富田病院から医師や看護師15人、さらに近隣の厚生会病院(現・県立病院)から看護師約10人が救護隊として現場に駆けつけた。彼らは焼死体の収容や、火傷や怪我を負った約20人の治療にあたった。

この火災で、逃げ遅れた福井高等女学校の生徒4人が焼死するという悲劇が起きた。犠牲者は、2年生(16歳・森田町在住)2人と、3年生(17歳・三国町在住、坂井郡伊井村在住)2人だった。また、福井高等女学校の生徒1人と男性乗客3人が重傷を負い、富田病院と厚生会病院に収容された。富田病院の外科部長によれば、焼死者は火災の衝撃で失神し、逃げ遅れた可能性が高いという。

なお、燃えた2両は列車から切り離され、残りの車両が再び連結された後、列車は約45分遅れで出発した。

鎮火後、2両の車両は福井駅構内待避線に置かれ、車両は臭気を放ち、車内は天井まで完全に焼け落ち、シートはガラスの破片でめちゃくちゃに切り刻まれ、床板はサラサの様になっていた。網棚などは完全になくなり、ただ帽子掛けの鉄片がわずかに残っているのみだった。窓ガラスはほとんど割れ、床には本、風呂敷、長靴などの乗客の荷物が散乱していた。

女学生の死体は担架で更生会病院に運ばれた安置し、同日午後7時頃から福井警察署職員、検事、判事、同病院の松村博士らによって死体の検証が行われた。翌1月14日午後2時頃からは、判事、検事の現場検証が便利屋ら関係者立ち合いの上実施された。ちなみにAは少しやけどを負う程度であった。

この頃、春江村、金津町、三国方面には約5名の便利屋がおり、客に頼まれては荷物の運搬をこなし、毎日5,6回の列車往復をしているが、列車道徳は皆無で、大きな荷物を客席に持ち込んでは他人の迷惑なんか考えないという横着な態度で他の乗客に憎まれていた。

 

事故のその後

1月17日、猛烈な吹雪の中、午後1時から福井市西別院において、事故で犠牲となった4人の女学生の追悼会が行われた。この追悼会には、近藤知事や県学務部長をはじめ、各種団体の代表約200人、遺族、福井高等女学校の生徒1000人、仁愛女学校および実科高等女学校の生徒それぞれ50人が参列した。

2月7日、鉄道省は、この事故の原因者であるAに対し、失火および過失致死罪による損害賠償金6017円47銭を請求する付帯私訴を福井区裁判所に提起した。続く5月6日、福井区裁判所でAの失火および過失致死に関する公判が開かれ、検察側は罰金400円を求刑した。

5月17日、福井区裁判所は、検察の求刑通りAに対して罰金400円の判決を言い渡した。また、鉄道省が提起した損害賠償請求についても、5470円90銭の支払いを命じる判決が下された。しかし、Aはこの判決を不服として5月26日に福井地方裁判所に控訴したものの、7月17日に控訴を取り下げた。

 

参考文献:福井県警察史 第2巻 P773-776、昭和11年1月各日福井新聞

事故の発生箇所

松本通りの踏切(高架化により消滅)はJR側は清川踏切(志比口踏切)、えち鉄側は福井口踏切と3つの名前がありました。

2025年1月現在の事故現場、旧踏切を撮影

 

左:焼失した2両の車両、右:燃えた車内(昭和11年1月14日福井新聞より引用)

以上、北陸本線旅客列車火災事故(1936年1月福井市で発生) でした。

過去の福井の出来事